宗教と信心信仰とは違います
宗教とは
信心信仰を身に付けるために先人達が試行錯誤し努力しながら体得した方法手段をマニュアル化したものです
では、その努力の果てにどうしても身に付けたい信心信仰とは?
「信心信仰」を読む時には後ろから読みます
「仰」→「信」→「心」→「信」
まずは「信仰」
「仰」・・・字源は、向かい合ったものに対し、顔を上に向けて見上げる情景です
つまり、圧倒的に優位な相手に対してひざまずき、仰ぎ見ることを示すわけで
私たちの頭の上、そこにおられるのは神様や仏様やご先祖様のように目には見えない方々です
「信」・・・「人」と「言う」から成り立つ言葉
「言」の字源は「辛」だとされ、なんやかやで神様に誓いを立てる言葉だと説明するむきもありますが
上がおっしゃるに、「言は、人の行動を示す文字だ」と「それは謝を読み解けばわかる」と
そこで「謝」を分析するのに「感謝」という言葉を例としてあげてみると
「感謝」とは「ありがとう」という気持ちだというむきもありますが
「感謝」とは、「ありがとう」とすでに感じ入ってるわけですから「ありがとう」という気持ちを示すわけではありません
「謝」という文字がくっついていますからね
ありがたいと感じ入って、ゴメンナサイと謝るのは、どう考えてもおかしな対応です
では、「感じ入る」に「謝」がつくとどういう意味になるか?
「言」と「射」から成り立つ文字
「射」とは、弓矢で的を射るという言葉通り、的を狙うという意味で
「起こった物事に対して目標、目的を明確にする」という意味になります
しっかりと観察することですね
そして「言う」は「行動する」ですから
感謝とは、ありがたいと感じ入って、そして何をどう行動するかという意味です
「ありがたい」と思ったら、相手に直接お返しをしてもいいし
困っている人がいたら、その人にお返しをしてもよい
それは回り回って相手の評判を高くすることになる
自分に何ができるか?
無理せず精一杯できることは何なのかを想像すること
感謝とは、そういう言葉です
では、「言」は声に出して言うことも含めた「行動」を示す文字になります
そうなると、「信」は人の行動を示す文字となります
このことから、「信仰」とは「目には見えない方々は存在していると信じて行動をする」ことになります
目には見えない方々が存在していると信じることができたとき、自分は何をどう行動するのか?
「お願いをして叶えてもらう」というのも一つですね
願いを叶えてもらって「ありがとう」という言葉を直接伝えるためには、「ありがとう」相手が存在していると肯定しないと言えませんから
もう一つは、「いつも見られている」という感覚が身に付いていくことです
いつも見られているとどうなるのか?
十一善戒(花鳥苑では十善戒に「不懈怠」を加えます)を守ることになります
不懈怠(ふけたい)とは「怠けない」という意味です
いつも見られているから、社会的に悪いことができなくなる
それが信仰がもたらすものです
「信仰」は目には見えない方々がおられると確信を持つこと
では、信心は?
「心」というのは、もちろん自分自身のこと
自分自身とは、自分の魂のことです
脳ミソではありません
脳ミソは経験を記憶しておく場所ですから、決断はできません
パソコンも決断はできませんよね
信心とはつまり
「目には見えない方々に見られているから悪いことをしない」
「誰かに見られているから悪いことをしない」
というところから
「自分が見てるから悪いことができない」というところへ昇華することを言います
脳ミソが考える「経験的にしない」ではなく
「それは善いことか、悪いことか」
「それは道理に合っているか、合っていないか」
そういう自分を俯瞰して見る自分がいると信じる
ということなんです
例えばコンビニで
防犯カメラがついているから泥棒をしないのか?
防犯カメラはついていないけど、自分が見ているから泥棒しないのか?
そういうことが「信心」です